萩原 正敏 Masatoshi HAGIWARA

職名 特任教授(創薬医学講座)
卒業大学(年) 三重大学医学部 1984年卒業 
学位 医学博士・三重大学 1988年3月
専門分野 ケミカルバイオロジー・分子生物学
資格 医師免許
researchmap https://researchmap.jp/read0011076
主たる職歴 1988年 – 名古屋大学 医学部薬理学講座 助手
1991年 – Salk Institute (米・サンディエゴ) Postdoctoral Fellow
1992年 – 名古屋大学医学部 解剖学第三講座 助手
1993年 – 名古屋大学医学部 解剖学第三講座 講師
1995年 – 名古屋大学医学部 解剖学第三講座 助教授
1997年 – 東京医科歯科大学 難治疾患研究所 教授
2003年 – 東京医科歯科大学 大学院疾患生命科学研究部 教授
2010年 – 京都大学医学研究科 形態形成機構学 教授
2024年 – 現職
所属学会 日本ケミカルバイオロジー学会、日本解剖学会、日本薬理学会、日本RNA学会、日本ウイルス学会、日本癌学会、日本筋学会、日本神経科学学会、日本生化学会、 日本分子生物学会、国際ケミカルバイオロジー学会

転写や選択的スプライシングのリン酸化依存的制御機構の研究に従事。未知の遺伝子発現制御機構の解明と、自らが創製した阻害剤を武器に難治の病に苦しむ患者を治すことが、人生の夢

基礎研究への誘い:幸運の女神に後ろ髪なし

2010年7月1日より前京都大学大学院医学研究科長の塩田浩平先生の後任として、形態形成機構学教室教授を拝命致しました。これまでお世話になった母校の皆様にお礼を申しあげるとともに、研究者としての道を歩むことになった経緯を少し述べさせて頂きます。後輩の皆さんが将来の進路を選択する上で些かなりともお役に立てば幸いです。 私の実家は祖父の代から員弁市大安町で小さな診療所を営んでおり、あまり深く考えることもなく1978年に地元の三重大学医学部に入学しました。当時人気のあった手塚治虫の漫画のブラックジャックのような外科医になって、アマゾンかアフリカでも行こうと夢想していたのですが、専門課程に進級してしばらくすると、自分はそもそも医師に向いていないと自覚するようになりました。というのも、考えごとを始めるとほかのことは上の空になるような私には、ミスの許されない医師のような仕事は到底務まるとは思えなかったのです。さてどうしたものかと思案していたころ、当時薬理学講座の助手をされていた田中利男先生に誘って頂いて、遠藤登代志先生の実験のお手伝いをする機会を与えて頂きました。数々の失敗を重ねて当時薬理学講座教授をされていた日高弘義先生にお説教をくらうことも多かったのですが、研究室での生活は楽しく、講義はそっちのけで、しばしば大学に泊まり込んでいました。やみくもに実験するうちに、偶然にも新しいホスホジエステラーゼ(PDE)阻害剤が血管平滑筋や血小板でcGMPを上昇させ、血管弛緩や血小板凝集抑制をすることを見つけ、学部学生ながら2 報の英文論文を書かせていただきました。このPDE阻害剤は後に武田から脳循環改善薬カランとして発売され、新しい薬を見つければ臨床医として診察する以上に患者を救える可能性のあることを実体験することができました。研究室で実験中心の生活だったので本来の講義や実習はかなりサボらせて頂きましたが、同級の竹内万彦先生と高尾仁二先生のノートをコピーさせてもらったお陰で留年することもなく無事卒業できました。 内心密かに、「大学院ではセカンドメッセンジャーによって活性化されるリン酸化酵素を研究しよう」と決めていた大学6 年のある日、開業医だった親父に、「そろそろ卒業だが、何科にいくつもりだ」と質問されました。顔色をうかがいながら、「臨床はやめて基礎にいこうと思っている」と答えると、予想に反し、「そうか」とうなずいたきり何も言いません。親父のご機嫌を取るつもりで、「教授は大学院に籍を置いてから1、2 年間臨床研修をしていいと言っている」と話した途端、親父は激怒し、「そんな中途半端な気持ちで研究ができると思っているのか!卒後すぐに基礎の研究室に行って真剣に自分の才能を試せ。それでダメなら、きちんと自分の才能に見切りをつけた上で、生活のために臨床研修でも何でもすればよいだろう」と叱られました。研究で芽が出ないときに臨床へ行けるように保険をかけておこう」といった、安易な考えを見抜かれてしまったわけです。もし中途半端に臨床研修を受けていれば、実験が思うように進まず悪戦苦闘していた時に、研究をやめていたかもしれないと思って、親父が迷いを諌め退路を断ってくれたことに、今では本当に感謝しています。 今思えば、学部生時代にビギナーズラックで論文を書いて、大学院入学当時はいささか天狗になっていたのかも知れません。運命の女神はこのような慢心を容赦せず、大学院入学後は思うようなデータが出ずに悪戦苦闘しましたが、2年先輩の稲垣昌樹先生の厳しい指導のおかげで立ち直ることができました。臨床研修も入局もしていなかった上、卒業後すぐに家庭をもったので経済的にもとても厳しかったのですが、遠山病院の松本常男先生と加藤俊夫先生が、ほとんど役に立たない私を遠山病院の非常勤医師として雇用して頂いたお陰で何とか生活できました。そうこうするうちにやっと論文も出始めた大学院4年の夏、日高先生が名古屋大学医学部薬理学講座の教授に転任されることになったので、三重大学大学院に籍をおいたまま名古屋大学に移り、学位取得後、名古屋大学医学部薬理学講座の助手として採用して頂きました。 2年ほど助手を務めて留学を考え始めた私は、mRNAの転写制御の分野に研究テーマを移そうと考え、転写制御を主として研究している海外の研究者をリストアップし10通以上手紙を書きました。しばらくして、cAMP 応答配列結合蛋白CREBを見つけてクローニングした米国ソーク研究所のDr. Marc Montminyが私に直接電話をかけてきて、「何をやりたいんだ」と質問してきました。こういうときは「何でもやります」と言うべきなのでしょうが、やりたいことがはっきりしていたので、「やりたいテーマが二つある」と具体的に答えました。私がMarc に話したアイデアは、CREB の脱リン酸化によって転写が不活性化されるかどうかを調べることと、リン酸化したCREB だけを認識する抗体を作るというものでした。Marc は私のアイデアを聞いて、正直なところ本当かどうかわからないのですが、「私も同じようなことを考えている」と留学を許可してくれました。日高先生に留学が決まった旨を報告すると、「Cell、Nature、Science の主要3 誌のいずれかに論文が掲載されるまで日本の土を踏むな」と独特の言い回しで励まして頂き、薬理学講座の助手を辞することとなりました 1991 年7 月に渡米し、サンディエゴ空港で借りたレンタカーでラホヤのソーク研究所に乗りつけ、「Marc Montminy はどこ?」と聞いてまわっていたら、「自分のボスになる人間の顔も知らないのか」とあきれられてしまいました。やっと見つけたMarc は米国人にしては驚くほど小柄な人で、会うなり「明日、自分の研究内容について皆の前でセミナーしてくれ」と言われました。たどたどしい英語で話した私のセミナーを面白がってくれたのか、それまで「どこの馬の骨だ」という顔をしていたスタッフの態度が一変し、仲間として受け入れてくれ、その日から実験を始めることになりました。幸いCREB 脱リン酸化酵素を同定するプロジェクトは予想外に順調に進捗し、渡米後10カ月目の1992 年5 月にCell誌 に掲載されることが決まりました。主要3 誌のいずれかに論文が載るまで帰国できないと思っていたので、これでやっと日本に帰れるとほっとしたのを今でも憶えています。もう一つのアイデアの方も、幸い順調に実験が進展し、一流誌に掲載されました。米国オレゴン健康科学大学のGoodman 研との共同研究でCREB 結合蛋白(CBP)を発見し、Nature に共著の論文が載ったのもこのころです。でも、そうした研究上の成功よりもうれしかったのは、渡米するまで変人扱いされることも多く自信を失いつつあった私を、ソーク研究所の人たちが、「お前は日本人としては珍しくまともだ」と評し、暖かく受け入れてくれたことです。1年5カ月の短い留学生活でしたが、皆が集まって開いてくれたfarewell partyでの笑顔は、今でも忘れられません。 1992年12月31日にサンディエゴを発ち元旦に日本に戻りました。帰国後、名古屋大学医学部解剖学第3講座の若林隆教授の下で助手を務めることになったのですが、研究費も人手も研究機材もなく、学生をつかまえては、“生命の新しい制御機構を見つけて新薬を作る”と、文字通り夢のような話ばかりしていました。大した研究費もないまま、研究上必要な試薬や機器は値段にかまわず購入したので、一時は莫大な借金を抱える破目になりました。冷蔵庫を買うお金も惜しくてパン屋さんの店先に捨ててあった冷蔵庫をもらってきたので、研究室にグリコやコカコーラのマークがついた冷蔵庫が並んでいた記憶があります。そうした極貧の厳しい研究環境にもかかわらず、不思議と熱意のある学生さんはたくさん集まってくれて愉しく活気のある研究室でした。どう考えても当時はいろいろな意味で苦しかったはずなのですが、今では幸福な思い出しか思い出せません。 解剖学第3講座で遮二無二に研究に励むうち、助手、講師を経て助教授に昇任した私は、自分の下に集まってくれた学生達と、「選択的スプライシング制御機構の解明」という新しい研究テーマに挑むことを企てました。これは今から考えれば全く無謀な試みで、スプライシングに関する実験は難度が高く、論文を頼りに幾度試みても上手く行きませんでした。そこで意を決して、たまたま国際学会で日本に来ていたCold Spring Harbor LaboratoryのAdrian Krainer教授に無理やり頼み込み、共同研究を名目に、彼の研究室に1か月間、スプライシング実験を習いに行きました。テレビや新聞もなく、文字通り研究所へ泊まり込んで、朝から晩までスプライシング実験に明け暮れてひと夏を過ごしました。実験の合間に木陰で論文を読みながら、研究所の森に住み着いているリスにパンくずをあげて息抜きをしていたのを覚えています。 Krainer研でのトレーニングのお陰で技術的困難を乗り越えデータは出始めたのですが、解剖学講座の助教授として集められるお金はたかが知れています。研究費が賄えず借金がかさみ困っていたところ、東京医科歯科大学難治疾患研究所からお誘いのお話をいただきました。東京医科歯科大学には全くご縁がなかったのですが、教授に選任されたとのお電話を唐突に頂きました。予想もしていなかったので些か慌てて、現在の研究テーマを継続して良いことと大学院生を連れて移れることだけを確認して受話器を置きました。傍らにいた大学院生に、「どうも東京医科歯科大学の教授に決まったらしい」と告げたところ、「先生、どの講座ですか?」聞かれ、「しまった!講座名を聞くのを忘れた!」と漫才のような会話をしていましたが、こうした経緯で箱根を越え、全く見知らぬ東京に出て参りました。ところが、世の中そう上手い話はないもので、東京医科歯科大学に着任してみると、助教授と二人の助手は皆私より年配で、地方出の若造の私の指示など全く歯牙にもかけぬ態度でした。数年前に退官された前任教授の方には、“君、いつ辞めるの?”と嫌味を言われる始末で、こんなことなら名古屋大学で助教授をしていた方が良かったと、正直移ってきたことを後悔しました。しかし、後ろに戻る道はありませんし、莫大な借金もあったので、様々な研究費の申請書を懸命に書き続けました。文字通り必死で書いた申請書が運命の女神と審査員の心を動かしたのか、申請書の幾つかが通って漸く潤沢な研究資金を手にすることができました。ラボメンバーに関しても、解剖学第3講座で一緒に研究していた学部生や大学院生達が名古屋から東京に移って来てくれたので、何とか研究を軌道に乗せることができました。 2003年に「疾患生命科学研究部・生命情報科学教育部」という新しい理学系大学院を東京医科歯科大学に立ち上げ、ゲノム演習・発生工学演習など大学院生向けの充実した教育カリキュラムを整備するとともに、海外での大学院説明会やホームページ・シラバス・講義の英語化などによって大学院の国際化を推進し、各国から定員の数倍の留学生が受験するに至りました。私の研究室にもケベック大学(カナダ)、中国医科大学(中国)、ハノイ医科大学(ベトナム)など各国のトップクラスの大学からの優秀な留学生が、日本人学生とともに机を並べ日夜研鑽に励んでいます。13年半東京医科歯科大学にいましたが、何故か母校の三重大学からだけ一人も大学院生が来てくれなかったのが、とても残念です。 私の研究室では、自戒の意味を込めて「力を尽くして狭き門より入れ」と周りの若人に言い聞かせています。誰かが切り開いてくれた道を行くのでなく、新しい道を自ら切り開ける人材を育てたいのです。実際にpre-mRNAのスプライシング暗号の解明といった何十年も解けなかった困難な課題に向かって、スプライシングレポーターなど新しい実験手法を開発して乗り越えてゆく若き研究者が育ちつつあります。ラボ内では、学生・スタッフの区別無く忌憚無いサイエンス上の議論を戦わせる一方で、皆で和気藹々とバースデーパーティーをするような大家族的雰囲気を大切にしています。互いの個性を大事にしつつ、互いに助け合い励まし合って困難な問題を解き、世界との競争に打克てるような人材の育成するため、Cold Spring HarborやGordon Research Conferenceには、いつも複数の大学院生や若手研究者と伴って参加するとともに、スプライシング制御を研究する世界のトップクラスの研究者を毎年幾人も招聘して、大学院生と議論する機会も作っています。京都大学では、スプライシング制御が形態形成や神経発生の途上で如何なる機能を担っているかを解明するとともに、ダウン症、筋ジストロフィーなど従来の技術では治療方法がなかった難病に対する治療薬開発を行っていきたいと思っています。  限られた紙面では触れることができませんが、本文に述べた以外の多くの方々に本当にお世話になりました。今日に至ることができましたのも、苦しい時に支援の手を差し伸べてくださった方々のお陰と心より感謝し、この場を借りて御礼申し上げます。

研究テーマ

患者の染色体や遺伝子の異常に起因する先天性疾患に対して、遺伝子治療やiPS細胞などに期待が寄せられている。ところが、当然ながら、患者の細胞や遺伝子を人為的に置き換えることは、神ならぬ我々には非常に困難である。これまで医学・薬学が発展させてきた創薬技術を基に、低分子の化合物を新しいアイデアで用いることにより、先天性難治疾患に対する治療薬開発を試みる方が、むしろ現実的なのではないだろうか?何故なら、染色体や遺伝子に異常があっても、そこから発現するRNAに影響を与える化合物を見つけ、症状の発現を抑えることは論理的に可能であるからだ。このような発想から、全く新しい創薬スクリーニング方法を考案し、ダウン症児の白血病、デュシェンネ型筋ジストロフィー、薬剤耐性ヘルペス感染症、遺伝性自律神経失調症、アルツハイマー病、神経障害性疼痛、加齢性黄斑変性等々、従来の薬剤では治療が困難であった疾患に対する治療薬候補物質を、我々の研究室では続々と見つけつつある。

メディアでの紹介

1.テルモ生命科学芸術財団HPに対談記事が掲載されました(2017年3月15日)

https://www.terumozaidan.or.jp/labo/interview/46/index.html